妙蓮寺の万灯会


地域の人々も集える場を提供



 わたしたちが、西陣の空き町家の有効活用を始めた同じ年に、わたしは妙蓮寺の伝統行事の復活を提案していた。それは万灯会(まんとうえ)と呼ばれる行事で、宗祖日蓮が入滅した日を御会式(おえしき)と称し、多くの絵画行灯(あんどん)をかざして徳を讃(たた)えるものだ。その伝統的な行事が天明の大火をきっかけに中断してしまっていたのである。207年ぶりの復活に際しては、ただ行灯を灯すだけでなく、元来あった法華宗とアートとの深い関係をもう一度、再構築し、地域社会と連動させることが目的であった。
わたしにとっては、もはや仏教というものは、一宗教ではなく、日本人の精神風土を培ってきた文化なのである。これは、その文化の復権を願ったものだ。
明治維新後の混乱期に、はいぶつ廃仏きしゃく毀釈という嵐に席巻され、仏教と神道が分離させられた。仏教は多くの文化財や寺を失い、その国家的損失は計り知れない程であった。多くの画家や作家が仮寓(かぐう)し、寺子屋という塾が開かれ、市民の拠り所であった寺院は、明治以後、表舞台から去って、太平洋戦争が終わるまで、ひっそりと身を潜めていたといっても過言ではない。
その習慣というものは恐ろしいもので、戦後60年経った現在では「お寺が市民に開かれた存在であること」は珍しいことになってしまったのである。元来、そうであったということすら市民は知らないのが現状だ。お寺は、観光寺院以外、檀家や信徒にしか開かれていない場所で、一般の人が入ることすら出来ない所だと思われているのである。
妙蓮寺は、94年にちょうど創建700年の節目を迎えていて、701年目の第一歩に過去の伝統行事などを調査し、万灯会の復活を目指したのであった。
万灯会の復活提案は、妙蓮寺の会議に上程され、さっそく、奉納絵画のサイズや用紙、展示方法や費用といった実務的な検討がなされ、依頼作家の選定作業に入った。
時に6月であったので、万灯会の10月までたったの4カ月を残すのみであった。
10月まで時間がない。「今年は不可能だ」とも言われたが、なんでもチャンスというものがあり、意気というものがある。意気消沈しては、何事も成すことができない。せっかくいろんな協力者が現れ、後押しをしてくれている時だった。チャンスはつかみにゆくものである。
この行事復活に際しては、水墨画家のこもり小森ふみ文お雄氏の多大な協力があったことを忘れてはならない。また、実際に展示枠を考案し、製作奉仕をしていただいた妙蓮寺のスタッフの方々や、復活の趣旨に賛同していただいた全国の作家の皆様にも感謝しなければならない。
このように、多くの人々の協力やアイデアの結晶である万灯会を檀信徒や近所の人だけに披露するのは、もったいないということもあって、地域の人々も集える場を提供するために、手作り市・フリーマーケット「西陣楽市楽座桃山文化村」を同時開催しようということになったのである。